島津家久[1547〜1587]
島津家久(しまづいえひさ)
1547年、九州の戦国大名・島津貴久の四男として生まれる。
(薩摩藩初代藩主の島津家久(忠恒)とは同名だが別人物。)
「島津四兄弟」の末弟。
1569年、北薩摩の国人との戦で自らが囮となり、「釣り野伏せ」により敵勢を包囲しこれを殲滅。
23歳にして指揮官として活躍。
【釣り野伏せ】 島津家の得意戦法。 多数の伏兵を隠し、先攻部隊が適当に敵と戦い故意に退却し、 敵を伏兵がいる場所までおびき寄せ、機を見計らって一斉に包囲し潰滅させる戦法。 囮部隊の指揮官は戦場経験が長く、進退の駆け引きに長け、優れた采配力を持っていないとならない。
1575年、薩摩・大隈・日向の三州を統一できた感謝の参拝の為、上洛。
京都で、大坂から帰陣途中の織田信長の軍勢を見物。
坂本で明智光秀の歓待を受け、光秀と懇意になる。
田舎者であることを恥じることなく堂々と接待を受ける。
1578年、日向佐土原領主となる。
1584年、沖田畷の戦い。
長兄・義久が有馬晴信の援軍要請を受け、龍造寺隆信との対決を決意。
派遣軍の総大将には末弟で"島津家一の戦上手"といわれた家久が選ばれる。
家久はこの決戦におよび「場定」という苛烈な軍令を発する。
【軍令「場定」】 合戦終了時、最初の持ち場より前進していたらよし、 左右にずれたり後退しても敵が撃滅されていればよし、 それ以外は部隊全員が死罪
有馬勢と島津勢合わせて6千に対し、押し寄せる龍造寺勢は3万。
家久は有馬方の諸将と協議し、戦場を島原北部の沖田畷とする。
沖田畷は左右を沼沢に囲まれた湿地帯で大軍を展開することが困難な場所であった。
家久は敵大軍を湿地帯に誘い込み得意の「釣り野伏せ」により龍造寺隆信を射殺、大勝利を収める。
【江里口信常と家久】 龍造寺勢が敗走するなか、敵の首を持った武将が家久の本陣へとやってきた。 家久は、何の疑いもなく褒美をやろうとした。 その瞬間、その武将は家久の足を斬りつけた。 その武将は「龍造寺四天王」の一人、江里口信常であった。 この時家久は、 「なんという猛将だ。殺すには惜しい。こやつを生け捕りにしろ!」 と命じた。 しかし、すでに信常は家久の家来によって斬殺されていた。 家久は信常を「まさに武士の鏡だ」と賞賛した。
1586年10月、戸次川の戦い。
九州統一を目指し、日向方面の総大将となった家久は大友領に攻め込む。
秀吉が島津氏の九州統一阻止と大友救援の為、九州征伐の大軍勢を派遣。
家久は戸次川を渡河中の軍勢に下流から怒涛の如く襲い掛かり、これを殲滅。
敵将・長宗我部信親、十河存保を戦死させる。
1587年4月、居城佐土原城を豊臣秀長に開城し降伏。
秀長に面会した後、吐血して死去。
家久を恐れた秀吉方による毒殺説がある。
子の豊久は関ヶ原の戦いで義弘(家久の兄)の身代りとなり壮絶な戦死を遂げている。
戦国最強の「島津四兄弟」の末弟、家久。
戦術、戦績から見る限り、戦国時代でも3本の指に入る実戦指揮官ではないでしょうか。
九州一の勢力を築き上げた兄達の戦略もこの末弟・家久がいればこそのものだったと思います。
「場定」の軍令などからかなり肝の据わった九州男児のイメージのある家久。
早世が惜しまれます。