本多忠勝[1548〜1610]
本多忠勝(ほんだただかつ)
徳川四天王・十六神将の一人。
「ただ勝つのみ」という願いを込て名付けられた忠勝は生涯57度の合戦に出陣し、1度も傷を受けなかったという。
15歳の時、叔父小原肥前とともに戦場に出た際、小原肥前が功名を譲ろうとしたが「なんぞ人の力を借りて、もって武功をたてんや」とそれを拒否、敵陣に駆け込み自ら首を討ち取ってきた。
1572年、遠江に侵入した武田信玄の軍勢を偵察に出かけた家康が見破られる。
武田軍に追撃され、一言坂で追いつかれた時、徳川軍の殿軍を務めていた忠勝は、鹿角の兜に、蜻蛉切と称される槍を駆使して奮闘する様は敵方をも驚嘆させ、「家康に過ぎたるものは二つあり。唐の頭に本多平八」と褒め称えたと伝えられている。
(ちなみに、唐の頭とは、唐牛の尾毛で飾った高級な兜のことである)
1582年、織田信長の甲斐武田氏討滅戦に参加した時、信長から「花実兼備の勇士」とその勇猛果敢、智略に富んだ戦い様を賞される。
小牧長久手の戦いではわずか500の兵で秀吉率いる3万8000の兵を牽制。
たった500の兵で食い止めようとした胆力ぶりに秀吉は「東に本多平八郎あり、西に立花宗茂あり」と賞賛。
1609年、隠居して嫡男・忠政に家督を譲る。
翌1610年10月18日、桑名においてその生涯を閉じた。
享年は63歳。
彼の遺書から、
侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の艱に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守を指して侍と曰ふ
命を惜しまず忠節を励めと言っているのである。
僕の好きな武将の1人。
徳川家康に対する忠勝の忠義は三国志の関羽に似ている気がします。
徳川の天下になってから戦人としての活躍の場を失った忠勝、潔い引き際が爽やかに感じます。